マナビノギ

マビノギハァンタジーライフ

2010年09月

あすさんの家庭教師 番外編


今日は月曜日。


土日の開放感とは打って変わって倦怠感に襲われる1週間の始まりであるが、
いまだに中学3年の夏休みが続いているあすさんにとっては無関係の曜日であった。


明海「あすさん! 今日は何の日か知ってる~?」
あすさん「ふむ。検索してみるか…」
明海「いやいや、普通に答えてよ」
あすさん「節分かな」
明海「それはちょっと前だね」
あすさん「建国記念日だったか」
明海「惜しい。それは11日」
あすさん「終戦記念日」
明海「もうそれ適当に言ってるでしょ。2月14日といえば~?」
あすさん「214で、にいよんの日」
明海「にいよんって何?」
あすさん「お兄さんのこと?」

明海「はあ…もういいわ。ヴァレンタインデーよ!」
あすさん「バイオか」
明海「さあっ! この箱をあすさんにあげましょう~~」
あすさん「箱だけか?」
明海「中身もどうぞっ!」
あすさん「……ずっしりと重い……」
明海「重いでしょう」
あすさん「質量が大きい…」

明海「開けてみていいよ!」
あすさん「厳重に梱包されている」
明海「それだけ思いが込められてるのよ!」
あすさん「だから重い……」
明海「過剰包装とか言わないでね?」
あすさん「言わないよ」
明海「……どうしたの?」
あすさん「あまりにも厳重な梱包なので開けられない」
明海「あすさんって不器用なんだ…」
あすさん「ジルみたいに手先が器用じゃないからな」
明海「あたしが開けてあげるわ。…あっ…」
あすさん「手の怪我が治るまでは動かさないほうがいい」
明海「怪我してないほうの手だけで開けられるよ~」
あすさん「だめだ。これは私が開ける」


あすさんは不器用な指先を懸命に動かし、箱の梱包を解こうとする。



5分後…



あすさん「このリボンというやつはどうやって結んであるのだ……」
明海「え? こことここを引っ張るんじゃないの?」
あすさん「なんだと……」
明海「ほら」
あすさん「見事だ……」
明海「第一関門突破!」
あすさん「ああ…次はセロテープだ…」
明海「ほんと、過剰包装よね~」
あすさん「自分で言うのか……」
明海「ええ、まぁ~」

突然あすさんの手が止まる。

あすさん「……なるほど……」
明海「え? 今度は何??」
あすさん「これは明海の手作りではないんだな……」
明海「ああ~~~~~…うん、そうだよ」
あすさん「…そうか…まぁ、その手の怪我ではな……」
明海「なになに? もしかして期待してたり??」
あすさん「うむ。そうだ。これほど落胆するということは、間違いなく期待している」
明海「何に期待?」
あすさん「チョコレート」
明海「わかってるじゃないの!!あすさん!!」
あすさん「わかってるよ」
明海「わかってないから言ってるのよ!」
あすさん「いや、本当にわかってるよ」
明海「んも~~~~~」

再び楽しそうに手を動かし始めるあすさん。

あすさん「つまりこれは明海の手作りではなく、既製品を過剰に包装してもらったものということか」
明海「その通りです。すみません」
あすさん「謝らなくてもいい。また来年もある」
明海「へへ…あすさん、それってメチャクチャ嬉しいんだよね~。調子狂っちゃうな~」
あすさん「…ついに封印が解けたぞ」
明海「おおっ!!」


丈夫な厚紙と梱包材の中から、光を放つハート型のチョコレートが姿を現した。


あすさん「素晴らしい。こんな上げ底になっているとは」
明海「ねえねえ…それって褒めてないでしょ?」
あすさん「次に一礼して……」
明海「聞いてる? あすさん?」
あすさん「食べてもいいのかな?」
明海「どうぞっ!」

茶色で光沢のあるハートの形をしたチョコレートを口に入れるあすさん。

あすさん「チョコレートの味だ」
明海「当たり前でしょ?!」
あすさん「アルファベットチョコとは比べ物にならない」
明海「それがあたしの気持ちですっ!」
あすさん「このチョコレートが明海の気持ち」
明海「そうです!」
あすさん「明海の気持ちがチョコレートという形に変わったものを、私は食べている」
明海「そうそう!」
あすさん「気持ちが具現化したということだな」
明海「そうよ~!」
あすさん「愛がチョコレートになったのだ」
明海「ちょ……」
あすさん「だが、その逆、チョコレートという物質そのものが愛になることはありえない…」
明海「うんうん。そうだよ! わかるわかる!!」
あすさん「つまり──…」
ドレン「錬金術を通じて物質を変化させることより人の心を変化させることのほうが難しいものです」
あすさん「( ゚д゚ )」
明海「( ゚д゚ )」


ドレンの突然の乱入に驚く二人。


あすさん「下着おばさん……」
明海「どこから沸いて出た!?」
ドレン「? ?????. ????? ???? ?? ???.」
あすさん「……何を言っているのかわからない……」
ドレン「まだ何か必要な物があるのかしら? 何でも言ってちょうだいね」
明海「チョコあげるから帰ってください!」




あすさん「このチョコレート……錬金術で作ったのか?」
明海「ああ~~~もうっ!!!最悪だわ~~~~~」



番外編 おしまい

一晩中、マビノギの話題で過ごしてしまう明海と凛。

あすさんは床に大の字になって永眠している。



凛「へぇ~! 街灯を叩けば叩くほど釘や金貨が出てくるのかぁ~」
明海「おかしな話でしょ~? 小さい玉はインプが隠したとかいうけど、本当は錬金術なのよね」
凛「釘が手に刺さることはないのかな?」
明海「それもあるよね。でもあたしは刺さったことない。あすさんは手が血まみれになったと言ってたけど…」
凛「…恐ろしいゲームだね…」
明海「初めはお金がなかったから、街灯を叩きまくって財布いっぱいの金貨を稼いだよ」
凛「ああ……それで手を怪我してしまたんだね……」
明海「違うって! あすさんみたいなボケ方しないでほしいわ」
凛「ごめんごめん。でも本当に面白そうだなあ。……あ、あすさんをそろそろ起こそうか?」
明海「あすさんは安らかに眠ってるよ」
凛「じゃあ…このまま寝かせてあげようか…」
明海「二度と目覚めることのない眠りについてるのよ」
凛「ええ!?それは大変だーーーーーーー」


凛は驚きのあまり大声を上げた。


あすさん「……なんですか、そうぞうしい……」
明海「うわ! 起きたー」
凛「ひいいいいいいいいいいゾンビーーーーーーーー」

あすさんは冷たくなった体をゆっくりと起こし、再び温かくなった。

やがて回診の時間となり、白衣を着た医師と看護士2人が病室へやってきた。


看護士「回診の時間でーす」
凛「あ、もうそんな時間か……」
医師「元気そうですね」
明海「えーと……まだ手の感覚がないんですけど」
医師「まだ傷がふさがっていないと思うので、動かさないようにしてください」
看護士「携帯でゲームですかー?」
凛「あはは。ゲームだなんて。とんでもない…。僕たちがやっているのは──」
明海「あぁもう! それは言わなくていいのよ、それは!」
医師「どんなゲームですか?」
凛「冒険がある! 生活がある! ほのぼの系無料オンラインRPG」
医師「ぶっ!」
看護士「マビやってるんですかー!?」
明海「うえええ……」


目をきらきらと輝かせる看護士と医師におびえる明海であった。


医師「ははは…まあ、ゆっくりとお話したいのは山々なのですが、他の患者さんも回らないといけないので…」
明海「はい、いいです、どうぞ、行ってください!」
看護士「お大事にー」
医師「………と、サーバーはどこですか? ぼそぼそ…」
凛「タルラークです」
明海「ちょ……」
医師「残念、違いましたね……。ではまた」



その様子を笑いをこらえながら見ているあすさん。

いろいろツッコミを入れたかったが我慢していた。

いつでも、どこでも、気が狂ったように“ファンタジーライフ”を経験するあすさんと明海。
それはファンタジーとは別次元であることは明らかであった。

その二人が新たな犠牲者を出そうとしているのである。


凛は笑いを必死にこらえながらスマートフォンを操作し、その有害なゲームを検索した。


凛「……あれ? 話とは違うものが出てきたよ…?」
明海「それがマビの現実なのよ」
凛「…マ…ナ…マナビノギ…?」
明海「わーっ! だめ!!それは見ちゃだめ!!」
凛「えっ……」



明海は凛の手を取り押さえようとするが、すでに遅かった。



凛「こ、これは…!」
明海「あああああ……」
凛「……………」
明海「なんてこと…見てしまったのね…」
凛「冒険がある! 生活がある! ほのぼの系無料オンラインRPG」
明海「あああ……」
凛「無料で遊べるほのぼのオンラインRPG マビノギ」
明海「…………」
凛「……………なるほど」
明海「ど、どうかしら…?」
凛「オンラインRPGなんだね」
明海「ちょ! 気づくところがおかしいよ???オンラインなのは当たり前でしょ??」
凛「へえ~~」
明海「へえ~~って……おいおい……」


スマートフォンを使いこなす凛が“オンラインゲーム”の存在を知らなかったことに驚く明海であった

凛はそれまで三角形だった目を丸くさせて、あすさんと明海の壮絶な“ファンタジーライフ”の話に聞き入った。

やがて凛の警戒は解かれ、ほのぼのとした雰囲気に包まれるようになった。


凛「あすさん、すごいです!最高です!」
明海「ちょっ…だーかーらー! そういう話じゃないの、わかる!?」
あすさん「( ゚д゚ )」
凛「あすさんもすごいけど、二人がそこまで必死に…いや、熱中するゲームもすごいと思う」
明海「な……なんか引っかかる言い方ね…」
あすさん「事実でしょう」
凛「そうでしょう」
明海「うう……否定できないところが悲しいわ……」


あすさんと明海が必死であることは誰の目にも明らかなのであった。


凛「さっそく、どんなゲームか調べてみるよ」
あすさん「病院内では携帯電話の電源をお切りください」
凛「スマートフォンだから大丈夫です」
あすさん「……そうなの?」
明海「さ、さあ…?」
凛「この病室、無線LANがきてるよ。ここで直接、ネットにつなげられるよ」
あすさん「そのままマビもやればいいのに」
明海「ほんとに」
凛「今度、ネットブックを持ち込んでみようかな」
あすさん「今すぐだ」
明海「そうだ」
凛「( ゚д゚ )」


もはや依存症を通り過ぎ中毒に陥っている二人と、すでに侵され始めている凛であった。

凛は少し考えてから、あすさんを見上げて恐る恐る話しかけた。


凛「あの…あすさんというのは…」
あすさん「σ(゚∀゚)オレオレ」

あすさんは口頭で顔文字を話す。

明海の母「あすさんはアセチリサ…サルファー…酸? で、明海の家庭教師なのよ」
あすさん「( ゚д゚ )」
明海「お母さん、アセチルサリチル酸だよ。しっかりしてよ」
あすさん「よくできました」
凛「…アスピリン…?」
明海「そうそう。だからあすさんなんだよ」
凛「解熱鎮痛剤だったよね」
明海「いやいや! むしろ発熱激痛剤だよ!」
凛「ははは!!本当にそうみたいだね」
明海「ちょっと! そこ! 笑うところじゃないんだってば!」


凛は明海と2メートル近い身長差のあるあすさんを見上げて微笑んだ。


凛「そろそろ戻ろうか。立ち話もなんだから」
明海「さっさと帰ろう」
明海の母「ちょっとラウンジに行ってくるわね」
執事「ちょっと便所のトイレへ……」
明海「はーい」
あすさん「ラウンジ…」
明海「シールドじゃないんだからね?」
あすさん「( ゚д゚ )」
凛「……ぷぷ」


あすさんは手を触れず、凛が明海の車椅子を一人で押して病室まで行った。


凛「久しぶりに笑った気がするよ」
明海「いつも笑ってるじゃない?」
凛「作り笑顔……なんだ…」
明海「そうなの? そうは見えないけど?」
あすさん「( ゚д゚ )」
明海「あすさん、顔文字は邪魔だから…」
凛「くくく……顔文字が面白いよ」
あすさん「( ゚д゚ )」
明海「もう! そんなに凝視しないの!」
凛「はっはっは!」


にぎやかな3人は明海の病室に入っていった。

ジェームスというのは、イメンマハの大聖堂に立っている顔の長い不審な男である。
彼は不規則に「小さいことから、実践してください。それがやさしです。」という預言をするため、
感化されたあすさんはジェームスをバファリンの主成分だと勘違いしていたのだ。


明海の母「ええと…二人で散歩でもしていたのかしら?」
凛「は、はい。べ、便所のトイレへ」
明海の母「まぁっ…便所のトイレ……」
明海「ちょっと! そういうタイミングであすさんみたいなボケをしないでよ!」
あすさん「ほう…」
執事「まぁまぁ…aspirinさまのご愛嬌ということで…」
凛「???????」


凛は事情をまったく飲み込めないようである。


あすさん「甘いな………。お母さん、もう一度さっきのセリフを言っていただけますか?」
明海「お…おかあさんですって!?!?あすさん!?」
あすさん「(ジッと見つめてニヤリと笑う)」
明海「…………………あっ」


明海はあすさんのペースに簡単に乗せられてしまうのである。


凛「あはは……みんな仲がいいんだね」
明海「あのね、これはね、あすさんがね……」
明海の母「さっきのセリフというと……二人で散歩でもしてたのか、でいいのかしら?」
あすさん「たまには散歩もいいわね」
明海「フレッタ……」
あすさん「『ピーピー』」
凛「ははは…なんだかよくわからないけど面白いね」
あすさん「うむ」
明海「ちょ…あすさん…これは冷笑されてるのよ…」
凛「そんなことないよ。僕はこういう笑い方なんだ」
あすさん「うむ」
明海の母「明海、体はなんともないの?」
明海「まぁ、特には…」
凛「うん、さっきより元気になったみたいだよ」
執事「やはり明海さまはaspirinさまとご一緒でなくては!」
明海の母「そうね」
明海「もおぉ~~~~~~~っ!!」
あすさん「ウシ━━━━━━━(☆・(∀)・)━━━━━━━!!!!!」

同じ2本の足がついているといっても、明海とあすさんのそれは違う。

安静が必要な体でありながらも自由に歩き回る明海と、
健康体のくせに椅子に座ったまま硬直しているあすさんなのである。


明海の母「昔から落ち着きのない子でしたから、そんなに心配することはないですよ」
執事「は、はい……aspirinさま、どうかご安心を…」
あすさん「たとえ怪我をした部位が手だとしても、傷口が化膿すれば発熱や全身の倦怠感が起きる場合がある…」
明海の母「……というと?」
あすさん「絶対安静が必要なはず…」
執事「あ、ああぁ……やはり明海さまの身に何かあったのでは……!」
あすさん「おや? 誰か来たようだ」


エレベーターから降りてきたのは、車椅子に乗った明海と、それを押す凛であった。


明海の母「明海!」
執事「ご無事で……」
明海「…あ、あすさん…」
あすさん「ほら、やはり自分の足では歩くことができないでしょう」
明海「……何の話?」
明海の母「…えっと……あなたは…?」
凛「あ、どうも! はじめまして」
明海の母「明海と同じ学校の子ね?」
凛「1年の馬塲凛といいます」
執事「おお……あの半分がやさしさでできているという……」
あすさん「ジェームス……」
明海「それは違う……」
凛「????」
明海の母「バファリン……」
凛「…え…あ…まぁ、はい、そう呼ばれてます…」


明海「(もうっ!!あすさん、明らかに変なボケをしないでよね! 空気がおかしくなったじゃない…)」


明海はあすさんをにらみつけてそう思った。
しかしあすさんには伝わらなかった。

明海の母「それで明海が納得するなんて納得できません」
あすさん「いいシャレですね」



いつの間にか体調がよくなっているあすさん。
まずは明海の母を納得させる必要がある。



あすさん「波風の立たない展開はありえないと考えるべきです」
明海の母「…それは、たしかに、ずっと順調なことなんてないけれど……」
あすさん「海や川の堤防を高くすれば水害は防げる、と昔の人は考えたのです」
明海の母「そうですね」
あすさん「しかし現実には、堤防を越える水が押し寄せることもありました」
明海の母「それで……決壊した、と……?」
あすさん「そうです。高くするだけではだめなのです」
明海の母「ではどうすれば……」
あすさん「地震に強い建物についても考えてみてください」
明海の母「耐震構造……」
あすさん「揺れに耐える。とにかく耐える。家を揺らさないぞ! という発想ですね?」
明海の母「そうです」
あすさん「しかし現実には、揺れに耐えようとしたために逆に建物が崩壊することがありました」
明海の母「……なるほど……」
あすさん「揺れにあわせて建物も揺れる構造にし、地震のエネルギーを穏やかに逃がす工夫をしたほうがいいのですよ」
明海の母「ということは……」
あすさん「堤防の話に戻すと、高さよりも奥行きのある構造にし、水があふれても穏やかに流れるようにするのです」
明海の母「そうですか…。なんでもガチガチに固めればいいというわけではないのですね」

あすさん「教育でも同じです。四六時中ずっと先生がついて授業をすればいいというものではありません」
明海の母「息抜きも必要………」
あすさん「内容の詰め込まれた教育は効率が悪いばかりか、実際に成果を上げられないことも多いのです」
明海の母「でも、それであすさんの仕事が終わってしまうなんて……」
あすさん「このくらい大げさに切り出さなければ、明海の母親であるあなたに理解してもらえないと思ったからですよ」
明海の母「えっ……と、いうことは……じゃあ……??」
あすさん「私はどこへも行きませんよ」
明海の母「……よかった……」
あすさん「ただ、少し大げさに演出しておかないと、事の重大さが伝わらないまま次に進んでしまうことになりかねないので」
明海の母「明海の態度の変化が、それほど大きなものだったということですか…」
あすさん「学校で初めて友達ができたとすれば、明海にとっては非常に大きな変化になるはずです」
明海の母「よくわかりました…」


適当に説明し、明海の母を納得させることに成功した。

すると、執事がものすごい勢いで二人のところへ走ってきた。


執事「奥さま!!大変です!!」
明海の母「どうしたの?」
執事「明海さまが…病室におられないのです!」
明海の母「トイレとか、食事に行ってるんじゃないの…?」
執事「っは……」
あすさん「…そんなに動けるほど回復しているのだろうか…」

あすさんに金をつかませておけばどうとでもなる──

明海の母はタカをくくっていた。


しかし今、目の前で起きているのはどういうことなのか。
あすさんはその金を受け取らず、すぐにも撤退しようとしているのである。



明海の母「……では…どうすれば残ってくれますか?」
あすさん「残るか残らないかの問題ではないのですよ」
明海の母「月謝を2倍……いいえ、10倍払うことで残ってもらえますか?」
あすさん「金額の問題でもありません」
明海の母「では娘は…どうなるのですか…」
あすさん「心配しなくてもいいではありませんか」
明海の母「……なんてこと……」
あすさん「明海はあなたに心配される必要がありますか?」
明海の母「そ…そんな…」
あすさん「はっきりと申し上げましょう。この家庭では誰も幸せになることはできません」
明海の母「…………」
あすさん「“錬金術を通じて物質を変化させることより人の心を変化させることのほうが難しいものです”」
明海の母「……その言葉は…!」
あすさん「この意見はもっともなのですが、言っている本人に問題があるため、今ひとつ説得力に欠けています」
明海の母「人の心………」

人間ではないあすさんが、このような発言をするのは実に不思議なことである。
別の生物なのに、妙な説得力がある。



あすさん「だいたい明海が入院しているのに、見舞いに行こうともしないのですね」
明海の母「それは……わたくしにも仕事があるから……」
あすさん「そうですか。どうせ今の明海は親も、私も、見舞いに来ることを期待していませんけどね」
明海の母「……行きましょう……」
あすさん「仕事があるのでしょう」
明海の母「……明海の見舞いに行きます」
あすさん「いってらっしゃい」
明海の母「あすさんも…お願いします…」


あすさん、明海の母、執事の3人が屋上のヘリポートへ向かうと、天候が再び荒れ始めてきた。


あすさん「……地上を走っていくことはできないか?」
執事「は、はい……ただいま手配いたします……」

エレベーターで6分かけて地上まで降りると、天候が回復した。

あすさん「……どうする……」
明海の母「地上を走りましょう…」
執事「お車の準備ができました」
あすさん「早いな」

あすさんの前にやってきたのは、ピンク色に点滅するごく普通のリムジンであった。

あすさん「この車は誰の趣味なのかね…」
執事「もちろんaspirinさまのご意見を反映させたものでございます」
明海の母「ピンク点滅なんてレアだと思いません?」
あすさん「……どういう原理で点滅しているのだろうか……」


ピンク点滅リムジンは、内装もピンク点滅であった。


あすさん「すごい……」
執事「このために色指定染色アンプルを10個も使いました」
あすさん「10個……」
明海の母「気に入っていただけたかしら……」


あすさんは鮮やかなピンク点滅リムジンに乗り込み、気分が悪くなった。


執事「……もうすぐ到着しますから……」
明海の母「…ちょっと点滅が過剰すぎたのでしょうか……」
あすさん「快適だけど、点滅がきつすぎる……」

あすさんは乗り物酔いよりも気分が悪くなり、病院に到着するころには意識を保つことさえ困難になった。


執事「aspirinさま……病院へ行かれたほうがよろしいでしょうか…」
明海の母「なに言ってるの? ここがその病院じゃないの」
執事「そうでございました……」
あすさん「大丈夫……少し外で体を冷やしてくる……」
明海の母「では、わたくしは先に行ってきますね」
執事「はい。ご案内いたします」

あすさんは雪の混じる北風に身をさらし、明海の母と執事は病院へ入っていった。

執事「明海さまの病室は…」
明海の母「何階?」
執事「……少々お待ちください。受付で聞いてまいります」
明海の母「……さっき行ったはずじゃなかったのかしら……」
執事「奥さま、6002号室でございます」
明海の母「じゃあ6階なのね」

すると、あすさんがものすごい勢いで走ってきた。

あすさん「ちょっと待って~~~~~!」
明海の母「あ、あすさん! もう平気なのですか?」
執事「お、おお……顔色もよくなられたようで…」
あすさん「もう一つ重要なことが…」
明海の母「なんでしょう?」
あすさん「……ひとつ、芝居を打ってもらいたいのですが…」
明海の母「芝居……?」
あすさん「明海の将来を占う重要なことを知るためです」
明海の母「明海の将来…ですか…。ど、どうぞ。何でも言ってください」
あすさん「あなたの口から直接、私をクビにした旨を伝えてほしいのです」
明海の母「……えっ!?あすさんをクビに……?」
あすさん「そうですねぇ…理由は…、“明海の支えには到底なりそうにない”ということにして」
明海の母「ちょ、ちょっと待ってください。そうしたらあすさんはどうなるのですか?」
あすさん「いえいえ。その前に明海がどのように反応するかがポイントなのです」
明海の母「明海の…反応…」
あすさん「あわてて取り乱すのか、納得するのか」
明海の母「納得するはずがないと思うのですけど……」
あすさん「私の予想では、明海はあっさりと納得するはずです。そうなったほうが計画を立てやすいので」
明海の母「……いったいどういうことでしょうか……」

あすさんの考えを読み取ることができない明海の母。


あすさんは自分からチャンスを棒に振ろうとしているとしか思えないような行動をとっている。
しかもそれは、明海のチャンスをも奪うことになるのではないだろうか。

野菜たっぷりの温かいスープと、キノコをケチったグラタンを食べたあすさんは満足し、
その後、再び退屈となった。


執事「aspirinさま……このメニューは、明海さまとよくご一緒に食べられたものでございますね…」
あすさん「ゲームの中だけど……」
執事「野菜スープは猿にギフトし、キノコグラタンは頭を活性化させる…とうかがっております」
あすさん「正解」
執事「ああ……これからどうなさいますか……」
あすさん「………帰ろう」
執事「は…はい…」
あすさん「2週間、自宅待機ということになる…」

二人は病院の屋上に出て、自動操縦のヘリで自宅へ帰ることになった。



帰宅しても、迎えに出てくる者は一人もいない家である。


あすさん「…やはり……この家は家とは思えない……」
執事「……といいますと…」
あすさん「家族が帰りを待っているようには感じられないのだ……」
執事「……ああ……」
あすさん「家を出るとき、帰るとき、自分はまるで“お客さん”のような感覚がする…」
執事「はい……わたくしも…そう思います……」
あすさん「こんな環境で育った明海のことを、そう簡単に理解できる人はいないだろう…」
執事「その、理解できるお方こそがaspirinさまだと思っていたので……あ、いいえ…ああ……」
あすさん「いいんだ。私も理解はできていない。だから能無しだといわれても仕方のないことだと思っている」
執事「そんな…決してそのようなことは……」

あすさん「明海の母親に会ってくる」
執事「はっ……どうなさるのですか?」
あすさん「辞任する」
執事「お…お待ちください……も、もう少しお考えになったほうが……」
あすさん「これでいいんだ」
執事「では…明海さまの将来はどうなるのですか……」
あすさん「家庭教師には生徒の進路を決めることなどできない」
執事「しかし…」
あすさん「…とにかく母親と話をしてくる」


明海の母親は衣料品店のオーナー。
まったく姿を見せていなかったが、一人で衣服の製作を行っているのである。


明海の母「あら、あすさん、こんにちは」
あすさん「……大事なお話が」
明海の母「なんでしょう?」

あすさんは初日に受け取った300万円入りの封筒を出した。

明海の母「……どういうことでしょうか?」
あすさん「これはお返しします」
明海の母「まだ1週間もたっていないというのに…」
あすさん「その1週間で、明海の行動に大きな変化が起こったのです」
明海の母「…大きな…変化…?」


明海の母は手を休め、あすさんと真剣に話をするために向き合った。


明海の母「明海が変化したと……」
あすさん「友達ができたのです」
明海の母「……そうなの!?」
あすさん「友達以上の相手を、明海が自ら見つけたとも考えられます」
明海の母「ちょ、ちょっと待って? たったの1週間で、明海が変化するとは思えませんよ…?」
あすさん「なぜそう思われるのですか?」
明海の母「明海が…あすさん以外に心を開くものですか……」
あすさん「…そう……ずっと気になっていたのですが、その前提こそが大きな間違いなのですよ!」
明海の母「……そんなはずは……」

あすさん「明海の将来の夢はなにか、わかりますか?」
明海の母「え……役者になること…?」
あすさん「では私の今は? 将来はどうなるのか? わかりますか?」
明海の母「……そ…それは………」
あすさん「どう考えたってつながりようがありませんよね?」
明海の母「……でも……」
あすさん「本当に、明海のことをよく知ろうと思われたことがありますか?」
明海の母「もちろん…」
あすさん「私のことはどうですか? ほとんど誤解されているようですけど…」
明海の母「……明海の話題に出てくる人物は、あすさん以外いません……」
あすさん「寝言でも私を呼ぶような…?」
明海の母「あの子がわたくしに話すのは、あすさんとゲームで遊んだということだけ…」
あすさん「それで私しかいない、と……」
明海の母「そう! ほかに誰がいるというのですか?」
あすさん「ほかの誰かがいたとしたら?」
明海の母「………………誰なの? 知りたい……」
あすさん「そう思うでしょう? 知りたい知りたい知りたい、と思うでしょう?」
明海の母「当然じゃないですか……」
あすさん「ではなぜ、私については知ろうとされなかったのですか……」
明海の母「…………」



もともと明海の突拍子もない発想から始まった、今回の一連の出来事。

それ以前に、あすさんのことをずっと誤解し続けていた明海の母親。

肩を落として病院内を歩くあすさんと執事。


予想外の短時間で“お見舞い”が終了し、行き場もなくさまよっていた。


執事「……あの明海さまのご様子……いつもの明海さまではないようです……」
あすさん「……いや…あれも明海の一部なのだろう…」
執事「今まで16年間、明海さまの誕生からご成長を見守ってまいりましたが……あのようなご様子は初めてです…」
あすさん「まだ彼女の一生を見てきたわけじゃない…。16年目にして初めて現れた態度なのかもしれないぞ」
執事「ああ……反抗期なのでしょうか……」
あすさん「友達ができたのかもしれない。あるいは──」

がっかりした様子を露骨に体現しながら病院内を歩く二人に、どこからともなく笑いの声が飛んでくる。

あすさん「そんなにがっかりしているように見えるのかな…」
執事「は…はあ……笑われていますね……」
あすさん「お腹が空いた……」
執事「そういえば…朝から何も食べておりません…」
あすさん「昼になってしまった。病院で食事をしようか」
執事「ではわたくしもご一緒して…」

病院のレストランに入っていく二人。

執事「ああ……明海さまはきちんとお食事を取っておられるのでしょうか…」
あすさん「利き手があのような状態では、思うように食べられないだろうな」
執事「……何もお世話をせずにこんなことをしていてよいのでしょうか……」
あすさん「まだ点滴しか受け付けられないのかもしれない」
執事「あああ……あと2週間、どのようにすれば……」
あすさん「はあ……。私は真面目に勉強でもしようかな…」



そのころ、異例の措置で午前のみの短縮授業を終わらせた凛が病院へやってきた。



凛「明海さん!」
明海「…えっ! 凛? どうしてこんな時間に?」
凛「今日は短縮授業になっちゃって~」
明海「そっか! サボってきたわけじゃないんだね」
凛「うん。約束を守ったよ」
明海「ひょっとしたら午前中に来るかなって思ってた」
凛「…そうするにはサボらないといけなくなっちゃう」
明海「あはははは! そうだね!」
凛「お昼ご飯は食べたの?」
明海「まだ~」
凛「あ…でも…その手じゃ食べられないね…」
明海「え~? 凛が食べさせてくれるんじゃないの?」
凛「え? 僕が?」
明海「凛には右手と左手がついてるじゃない~」
凛「あ、ああ…」

明海は自分の食べたいものを売店で買ってくるように凛に伝えた。

そしてあすさんと出会ってしまう…というのはありがちな展開であるが、
あすさんと執事は食事に夢中になっていて、売店の凛の姿に気づくことはなかった。

長い夜が明けた。


予想に反してあすさんと執事は熟睡していた。

二人は背中を向け合って布団で寝ていたのである。


あすさん「ああっ!!寝過ごした!」
執事「aspirinさま、おはようございます」
あすさん「うわあああああああああああ!!!!!一緒に寝ていたのか!!!!!!!」

気配も感じさせずに横で寝ていた執事に驚くあすさん。

あすさん「もう11時だ。天気はどうなんだ!?」
執事「ふぁあ……あ…ああ…失礼いたしました…。わたくしも今、目を覚ましたところで……」
あすさん「はあ……これからは窓の近くで生活したほうがいいな……」
執事「はい……。どこにいても外の様子を見られるよう、カメラとモニタを設置いたしましょうか…」
あすさん「家を設計する段階でそうしてくれ……」

二人は窓に近づくと、温かい日差しのあることを感じた。

あすさん「いい天気だ! 今すぐ出発できそうか??」
執事「はい! ただちに!」
あすさん「その前に、トイレ……」
執事「はい……では、わたくしも……」

二人は連れ小便でトイレへ寄り、屋上へ向かった。

あすさん「む……あれだけ積もっていた雪がなくなっている……」
執事「なんと……」
あすさん「しかも…妙に暖かい……」
執事「ヘリの機体に素手で触っても大丈夫でしょうか…」
あすさん「この暖かさなら平気だろう……」
執事「では地上を走ってまいりましょうか」
あすさん「地上まで降りるのに時間がかかる…」
執事「おお……そうでした……」
あすさん「……まさか…操縦できないということはないだろうな…?」
執事「とんでもない!!ヘリは自動操縦でございますので…」
あすさん「おいおいおい……」

執事「目的地を入力すれば、自動的に飛んでいけます」
あすさん「ううむ……」


あすさんは半信半疑でヘリに乗り込むと、執事が操縦することなく離陸した。


あすさん「おお~~飛んだ飛んだ!」
執事「ヘリコプターは初めてでございますか?」
あすさん「イエス」
執事「最近、墜落する事故が多くて心配で……」
あすさん「…………」
執事「ああ! このヘリは大丈夫でございますよ!!!」
あすさん「ふむ……まぁ、まっすぐには飛んでいるようだから、大丈夫…か」
執事「はい! 決して落ちることはございません!」
あすさん「人を乗せて飛ぶヘリコプターを自動で操縦できる技術があるのに、ほかのシステムが…なんだかなぁ……」
執事「ナビによると、あの建物が病院でございます」
あすさん「おい……」
執事「わたくしは地理に疎いもので……」
あすさん「そういう問題なのか……」


二人を乗せたヘリは無事、樽帝院病院の屋上に着陸した。


あすさん「明海の病室は!?」
執事「……あ……」
あすさん「あ!?」
執事「…申し訳ございません……部屋の番号をうかがっておりませんでした……」
あすさん「なんだよ…まったく!!いいよ、受付で聞いてくる!」

あすさんはナースステーションを探して歩いた。

明海の自宅よりもはるかに狭く、迷うことはなさそうである。


あすさん「相葉明海の病室は…?」
受付「6階の6002号室です」
あすさん「ありがとう」
受付「あ、あの~」
あすさん「なにか?」
受付「aspirinさん…ですよね?」
あすさん「ち、が、い、ま、す」


今後、自分を知る人に出会っても、決して正体を明かしてはならない──

あすさんはそう思い、他人として振舞うことになった。


あすさん「6002…6002っと……ん、あの部屋だ」

あすさんは明海の名札のついた6002号室の前まで到着した。

あすさん「ふむ…個室のようだな。勝手に入っちゃってもいいかな…どれどれ…」




ガラガラ




明海「り…っ…あ……あすさん…!」
あすさん「おっおっおっ! 元気そうだね!」
明海「…うん…」
あすさん「ああ、横になったままでいいよ。いや~…本当は昨日ここへ来るつもりだったんだけどね~」
明海「うん」
あすさん「地上は大渋滞、空は猛吹雪で……ここまで来る手段がなかったんだ~」
明海「………」
あすさん「それが一夜明けたら快晴だし、妙に暖かくなってラッキーだったよ」

明海「(…そっか…まだお昼前だもん……凛がお見舞いに来るわけないよね…)」

あすさん「ん……? 明海、大丈夫か?」
明海「え? あ、うん! あすさんと会うのが久しぶりだったから…」
あすさん「まぁ…授業がいきなり中断されてしまったからなぁ…」
明海「ふぅ~…」
あすさん「怪我の具合はどうかな?」
明海「うん…2週間は安静にしないとだめだって…」
あすさん「そうか……食事とか不便だね…」
明海「思い通りに動かせないとストレスたまる…」
あすさん「でも……治るまでは我慢しないとね」

執事は遅れて病室へやってきた。

執事「あぁ……明海さま…はぁ…大丈夫でございますか…はぁ…」
明海「見てのとおりよ」
執事「はぁ……ご無事で…はぁ…なによりで…はぁ…ございます…」
明海「……どこを走ってきたのよ? ひょっとして病院で迷った?」
執事「……は…はい……」
あすさん「地理に疎いのは本当だな…」
明海「もう……そんなんじゃあ、うちの案内も任せられないわね~」
執事「…はぁ……これからは…しっかりと…頭の中に…地図を……」


あすさん「それで…明海は、自宅のほうへ戻って治療を続けるかね?」
明海「え……うーん……」
あすさん「もし移動するのが苦しかったら、このままでもいいのだが…」
明海「うん……あたしはこのままでいい…かな…」
あすさん「そ…そうか……」
明海「実は微熱もあってね……ちょっと…」
あすさん「ああ、無理はしなくていい…」
明海「…ごめんね、あすさん…ちょっと休んでもいいかな……」
あすさん「ああ……おやすみ…」


明海の妙によそよそしい態度に気づき、違和感を覚えるあすさんであった。

とはいっても、一時的に危篤状態に陥るほどの怪我を負ったのだから、
まだその感覚が残っていて、いつものような振る舞いをすることができなくなっている可能性はある。

そう思って、あすさんは病室をあとにした。

あすさんは夜遅くまで異常気象について、いや、暴走していると思い込んでいるサーバの所在を調べていた。


しかし、いくら調べても正確な位置を知ることはできなかった。



あすさん「もうこんな時間か……」

時計の針が0時を回り、あすさんに眠気が襲いかかる時間となっていた。

あすさん「……寝るか…」

次の瞬間、突然ダウンロードが停止し、マビノギのサイトにアクセスすることさえできない状態となった。

あすさん「あーあ…。臨時メンテだな、これは……もういいや、寝よう……」

あすさんは明海のいない寝室へ歩いていった。


あすさん「入院中は携帯電話も使えないのだろう……」

明海の寝ていたベッドの前で立ち止まると、あすさんはなんともいえない孤独感を覚えた。


今日は学校でどんなことを学んだのか。
友達はできたのか。
昼には何を食べたのか……

本来ならばこのような話題で盛り上がるはずなのに、部屋には誰もいない…。


あすさん「わずか2日目にして授業を中断することになってしまったな……
 明日は天気が回復して、病院に見舞いに行けるといいのだが……」

あすさんはきれいに洗って乾かしておいた弁当箱を明海の枕元に置いた。

あすさん「執事? 執事さん? いますか~~? ちょっと話があるんだけど~………。
 ん~………返事にラグがあるな……」


執事が姿を見せるまでに2分かかった。


執事「aspirinさま、お呼びでしょうか」
あすさん「呼んだ呼んだ。病院の機能を持っているのは病院しかないのか?」
執事「小さな診療所はいくつかありますが、本格的な病院は樽帝院病院ただ一つでございます」
あすさん「この家の中に病院はないのか?」
執事「あ、いいえ。このご自宅には医療設備が充実しております」
あすさん「じゃあ、明海をこっちで入院させることも可能なのか?」
執事「はい。そのように取り計らっております」
あすさん「…そうか…。明日にでも移送しなくては……」
執事「……それが……悪天候は明日も続く恐れが……」
あすさん「続くというのは予想だから、的中するかどうかはわからないだろう」
執事「は、はい……わたくしもそう思っております……この天気を予想できなかったので、続くという予想もあてにはなりません…」
あすさん「うむ……そうだと信じたい……」


二人は明海のベッドを見ると、深くため息をついた。


執事「aspirinさま…」
あすさん「なんだろう?」
執事「明海さまのことがご心配なのですね……」
あすさん「とても心配だ…」
執事「わたくしも心配でございます…」
あすさん「手のひらが剥離する大怪我か……痛いだろう……」
執事「今ごろうなされておられるのでは……」
あすさん「……想像しただけで痛く感じる……精神的な衝撃も大きい……」
執事「明海さまのご様子をこれほどよく理解していただけるのはaspirinさましかおられません…」
あすさん「そうか……まぁ、そのつもりで来たのだからな……」
執事「……感激いたします……」

あすさん「なんだか……あまり眠気が起こらないな……」
執事「おおぉ……。ですが…そろそろお休みになられたほうが……」
あすさん「そうだな……横になることにするよ……」
執事「おやすみなさいませ…」


布団に入って横になったものの、目を閉じても一向に眠れないあすさんであった。

自分のそばに昨日まであったはずの気配がなく、むなしさだけが漂っているからである。


このとき、予想に反して明海は熟睡しているということなど、あすさんは考えもしなかった。

樽帝院病院から飛び立った教師を乗せた熱気球が高校へ到着すると、
周辺は急に悪天候に見舞われた。


教師「……これは…吹雪になりそうですね……」
養護教諭「生徒たち、大丈夫でしょうか……」

正面玄関の扉にはタオルや新聞紙が当てられ、金属部分に触れて凍傷にかかる恐れのないように対策がとられていた。

教師「病院へ搬送した生徒は無事です。ですが、この天気では往来が困難で……」
教頭「今夜は全員、高校に避難することになりましたよ。今、保護者に連絡を取っているところです」
教師「お疲れさまです」
教頭「先生も少し休んでください。この寒さで汗をかくと風邪をひいてしまいますからな…」
教師「天気予報はどうなっています?」
教頭「はるか上空にあるはずの氷点下40℃の寒気が、地上にまで降りてきているという信じがたいニュースをやっていましたな」
養護教諭「……水道管も凍結する恐れがありますね……」
教頭「ええ……それが……すでに断水してしまっていて……」


水道が止まり、食堂にある食料も大部分が凍結し、高校は孤立してしまった…。




あすさんと執事はヘリコプターで病院へ向かおうとしたが…

あすさん「昨日とは打って変わって猛吹雪じゃないか!」
執事「…aspirinさま…ヘリはあちらにございます…」
あすさん「無茶だ! こんな吹雪の中を飛べるわけがない!」
執事「ですが……お嬢さまが……」
あすさん「10m先も見えない吹雪だぞ。こんな暴風雪の中を飛ぶなんて自殺行為だ」
執事「わたくしは……行かなくてはなりませぬ……!」
あすさん「待て! それに手を触れるな!!」
執事「…っは…!」

あすさんは執事に飛びかかるようにして制止した。
執事が素手でヘリの機体に触れようとしたからである。

あすさん「危ないだろ! 素手で金属に触れたら、凍りついて離せなくなるんだぞ」
執事「……お…おお………もしや…お嬢さまは…このような状況で……」
あすさん「明海は無事だったと連絡があったのだろう? 今はそれを信じて待つんだ」
執事「…申し訳ございません……つい、取り乱してしまいました……おっしゃるとおりでございます……」
あすさん「ここにいたら我々も危険だ。身の安全を優先したほうがいい」
執事「……はい……」


錬金術は天候を制御することはできない。

レインキャスティングで数mスケールの雨雲を発生させることはできても、
嵐をもたらす積乱雲を発生させたり、消滅させたりすることは決してできないのである。



屋内に戻った執事とあすさんは体が冷え、震えながら廊下を歩いていた。

執事「この寒波の原因は何なのでしょうか……」
あすさん「……ここはもともと高い山だったんだよな? それがなくなって標高が下がった……」
執事「はい……」
あすさん「……説明のしようがない……」


あすさんは昨日の作業の続きを行うため、再びネットカフェに向かっていった。

執事「aspirinさま、よろしければ温かいお飲み物をお持ちいたしますが」
あすさん「コーンポタージュがいい」
執事「はい。ただいまお持ちいたします」
あすさん「(どうせ冷めたやつを持ってくるんだろう…)」

あすさんは昨日のパソコンの前に座り、画面をつけた。


あすさん「まだ終わってねえ~~~~~~~~~~~~~っ!!!!!!!」


マビノギのダウンロードがいまだに終わっていないことに驚いた。


あすさん「フリーズか!?断線か!?どういうことだ!?!?」
執事「どうぞ、コーンポタージュでございます」
あすさん「なにぃ!?こっちは早ええええええええええええ!!!!!!!アツアツのコーンポタージュだ!」
執事「どうぞ、ごゆっくり。それでは、失礼いたします」
あすさん「おいっ! ここのパソコンは回線にちゃんとつながっているのか?」
執事「はい。順調に動作しておりますが…」
あすさん「……ってことは…マビのサーバが混んでるのか……ったく……」
執事「aspirinさま、また何かありましたらお呼びくださいませ」



いつものサーバ不調か──



あすさんはそう直感し、マビノギ公式サイトのお知らせを見たが、何も見つからなかった。

あすさん「自由掲示板……な、なんだこのスレッドは!!閲覧数1500万だと!?」

恐る恐る記事をクリックするあすさん。

あすさん「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

あすさんは目が飛び出るほど驚いた。

あすさんとのツーショット(゚∀゚)アヒャ

これが証拠( ゚д゚ ) <こっちを見ろ

なんと、ここへ来る前にバスと電車で会った女子高生たちに撮られた写真がアップされていたのである!

あすさん「これ!!!!!取り返しがつかないだろ!!!!!!!!!!!!!!!」

1500万を超える閲覧数のスレッドには、コメント数の上限に達した返信が無数に連なっていた。

マウスを持つ手は震え、額を冷や汗で濡らしながら、別の掲示板をクリックした……

あすさん「SS掲示板!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
 おい!!!!!!!!!!!!!!ネクソン!!!!!!!!!!!!仕事しろ!!!!!!!!!!!」

SS掲示板が一面、あすさんと女子高生たちの写真で埋め尽くされていたのである。

あすさん「なぜこれが削除されていないんだあああああああああああああああああああああああああああ」

SS掲示板のページをめくっていくと、あすさんにまぎれて“法闘士”の腹部の写真が目に入った。

あすさん「なぜだ……これも削除されていない……それどころか、絶賛するコメントが無数に書かれているぞ……」



そう。

天文学的な閲覧数やコメントの投稿がサーバに負担をかけ、クライアントファイルのダウンロードが遅くなっていたのである。


あすさん「……あっ……ブログは……!!!!!」


あすさんはあわてて自分のブログにアクセスしたが、なかなか表示されない。

嫌な予感である。



数分後、ようやく全体が表示されると…



あすさん「そんなバカな!!半日で5000万を超えるユニークアクセスが………こんなに集中したら、このサーバは余裕で落ちてしまうはず……
 というか、いったい誰がこんなに見たいと思っているんだ!?単なるF5連打か!?田代砲??サイバーテロか!?」

アクセスが増えたことが内心、嬉しいあすさんである。


それと同時に、ありえない一つの仮説が脳裏をよぎった。


あすさん「これだけ大きな負荷がサーバに一斉にかかれば、発熱も相当な量になるな……。
 もしかすると……サーバの熱によって局地的な上昇気流が発生し、異常気象を引き起こしているのではないだろうか……」


あすさんはサーバの収容施設の所在を詳しく調べることにした。




夜になると樽帝院病院も猛吹雪に見舞われた。


明海と凛はまだ病室でマビノギについて熱心に話し合っている。

明海「…それでね、毎日のように下着セットを修理に出してるんだって」
凛「うわぁ……錬金術の先生も、影で何をやっているのかわからないね~」
明海「人生で向き合ういかなるものも恐怖の対象ではありません。キリッ! って言ってるのに、一人では戦えないんだもん」
凛「とんでもない先生だね。そんな先生を見習ったら、生徒の人間性も歪んでしまうね」
明海「そうそう! その生徒ってやつが人間じゃないんだな~、これが!」
凛「へぇ! それってもしかして…さっき明海さんが言っていた、あいつ!?」
明海「うんうん! こいつこそが、あ……」
医師「相葉さん~回診の時間です~。具合はどうですか?」
明海「あ~、はい。うーん……電気みたいなしびれと痛みが少し…」
医師「気持ちが悪い、めまいがする、とかはないですか?」
明海「ないです。最初は吐きそうだったんですけど、ちょっと雑談したら気がまぎれました」
医師「そうですか。ちょっと体温と血圧を測りますね」

凛「…あ、それじゃあ僕はそろそろ……」
看護士「ああ! 今、暴風雪警報が出ていて、建物の外へ出られる状況ではないですよ…」
凛「ええ……どうしよう……学校は大丈夫なのかなぁ…」
明海「あ! 窓を見て! 真っ白に凍りついてるよ!」
凛「うわぁ…外はどうなってるんだろう…大変だぁ……」
医師「うーん……ここは病院ですし、一般の方が快適に泊まれる場所はないですから……」
看護士「みなさん、1階のロビーで休まれているみたいです。できるだけ快適に過ごしていただけるよう、配慮しています」
凛「そうですか。僕もここにいてはいけないから、ロビーに移動しますね」
明海「えー、もう行っちゃうの~?」
凛「ちょっとおしゃべりが過ぎたと思うよ……病院では静かにしなきゃね」
明海「うー……明日もお見舞いに来てくれる?」
凛「うん!」
明海「あたし、しばらく右手が自由に使えないから……あ、そうなんですよね、先生?」
医師「ん。そうですね。こういう怪我は治るのに時間がかかりますからねぇ……早くても2週間は……」
明海「2週間かぁ…。2週間は不自由するから、よろしくね、凛!」
凛「うん。お大事にね~」

医師「さて、血圧は正常、体温はやや高いですね。今日はもうお休みになったほうがいいでしょう」
看護士「手が使えなくて困ることがありましたら、ナースコールでお知らせください」
明海「は~い」


こうして明海は眠りについた

明海たちを乗せた大型熱気球が樽帝院病院の屋上に着陸すると、
病院の関係者たちは非常に驚いた様子で見にやってきた。


教師が病院側に事情を説明すると、重症の女子生徒と明海が最初に運ばれていった。


看護士「そちらの方も足を怪我されましたか?」
牛岡「え、ええ……足をくじいてしまって…いてて…」
教師「あと手や足を骨折したかもしれない生徒たちと……先生です」
看護士「動けない方から順番に処置室まで運びます。……先生は自力で来られます…よね?」
牛岡「あ、はい…なんとか…」

こうして全員が無事、病院で処置を受けることができた。


低体温で危篤状態だった女子生徒は意識を取り戻し、食事をすることもできるようになった。
足を骨折した男子生徒は軽傷で、他の生徒と牛岡も簡単な処置で済んだ。

しかし明海の右手の負傷は想像以上に大きく、化膿の恐れがあるため入院を余儀なくされた。




明海が大怪我のため入院するという連絡はすぐに自宅へ伝えられた。




そのころあすさんは、ゆうべの作業の続きを行うためにネットカフェへ向かっているところであった。


執事「あぁーーすぅーーぴぃーーりぃーーんーーさーーまーーーぁぁぁぁ!!!!!」
あすさん「うおおお!?」
執事「たっ…たったったっ…大変でございます!!!お…お…お嬢さまが!!!!!!!」
あすさん「明海が?」
執事「たった今、病院から連絡が入りまして……!」
あすさん「病院?」
執事「右手に大怪我をされて……入院の必要があるということでございます!」
あすさん「なんだって!?いったい何があった!?」

ネットカフェに入る手前であすさんは振り返り、執事から詳しい事情を聞くことになった。

執事「はい…。昨夜からの猛烈な寒波の影響で校舎が凍結し、それにお触れになって大怪我を負われたとのことです…」
あすさん「そういえば昨日、温泉に入ったときに雪が降っていたが……」
執事「お嬢さまの学校から先の地域は大雪で、交通が麻痺し、大渋滞になっているようであります……」
あすさん「…じゃあ、さっき見えた熱気球は…」
執事「はい。お嬢さまの機転により、救急車では間に合わないということで熱気球にお乗りになったようでございます…」
あすさん「……これから病院へ行くことができるか……」
執事「はい……。わたくしもいても立ってもいられません………」
あすさん「しかし…地上がそんな渋滞では……」
執事「ヘリコプターを出動させます」

あすさんと執事は急いで屋上のヘリポートへ向かった。



それと同じころ、教師と養護教諭が学校に報告するため、熱気球が病院の屋上から飛び立った。


明海は右手の負傷のため微熱を出してしまい、点滴をつながれて病室のベッドで寝ている。


明海「…助けてくれて…どうもありがとう…」
男子生徒「いえいえ、お礼なんていいよ…。無事で本当によかった」
明海「…あ、あの…」
男子生徒「喉が渇いた? 水ならここに」
明海「えっと…」
男子生徒「傷が痛む?」
明海「…名前…なんて呼べば……?」
男子生徒「あ、ごめん。自己紹介が遅れたね。僕は1年1組の馬塲凛。よろしくね」
明海「…バファリン…?」
凛「あはは。よくそう呼ばれてるよ~」
明海「ばばりんくん……」
凛「凛でいいよ」
明海「そっか。半分がやさしさでできている凛…?」
凛「やさしさかどうかは、わかんないけどね~」
明海「あたしは4組の相葉明海」
凛「相葉さん」
明海「アイバって呼ばないで…あいつムカつくから…」
凛「そっか…。明海さんがムカつく人がいるんだね……」
明海「ほんとにひどいやつなんだから~~」
凛「ああ、明海さん、あまり悪口を言わないほうがいいよ…」
明海「あいつ人じゃないから!」
凛「そんなこと言っちゃいけないよ…」
明海「いや、アイバってゲームのキャラのことだから!」
凛「なぁ~んだ、そうなんだ~~」
明海「あたしのことすごいなんて思ってないくせに、“明海さん、すごいです!最高です!”って定型文をしゃべるんだよ~」
凛「あはははは…ゲームだもんね。仕方ないよ~」
明海「ほかにもね、どうでもいい玉を集めさせたり、燃やしているわけでもないのに薪を切ってこいとか言うの」
凛「へぇ~! 面白そうなゲームだね。もっと聞かせてよ」


明海は自分の怪我を忘れるくらい元気になり、マビノギのことを凛に熱心に話した。

明海は地面をはうようにしてアイスバーンを抜け、高校の正面玄関までたどり着いた。

手足は凍傷になりかけ、感覚が麻痺した状態である。
指先の震えさえも凍結して動かないような手をさすりながら息を吹きかけ、
どうにか体温を取り戻そうとする明海。

明海が玄関の扉に手を伸ばした瞬間、

明海「いたっ!!!!!!!」

金属製のドアノブに手のひらが凍りついた。


厳寒のときは金属製の物体は凍結しているため、決して素手で触ってはならない!
明海は血の気が引いていくのを感じた。


明海「ひっ……ひいいいいいいいいいいっっっっ!!!!!!!!」

「バリバリッ…ブチッ」

自分の右手が凍りついたことで気が動転し、あわてて引き離そうとしたため、
マジックテープ式の財布を開けるときのような音とともに手の皮が引きちぎれ、
激痛を伴ってドアノブから離れた。

明海「う…うあ………あ……あっ……ああああ!!」

右手から鮮血が噴き出し真っ赤に染まったが、あまりにも低温のためすぐに収まった。
しかし、手のひらの皮と筋肉が剥離し、明らかに削り取られているのが見てわかったため、
明海の意識は遠のいてショック状態になった。

明海「……あ…あぁぁ…あぁ……あぁ……」

その光景を玄関の中から見ていた男子生徒が異変に気づき、すぐに駆け寄ってきた。

男子生徒「大丈夫かい!?扉を開けるよ!」
明海「……あああああ…………」
男子生徒「素手で触っちゃったんだね……大変だ……」
明海「…はぁ……あぅ………あぅ……」
男子生徒「内側も完全に凍結しているから、頑丈なグローブをはめていないと触れないんだ…」
明海「……う……うっ……うっ……うぐ……っ…うぇ……」
男子生徒「傷を見ちゃだめだ! 大丈夫だよ! すぐに手当てするから!」

男子生徒は自分の懐からハンカチを取り出し、明海の右手を慎重に包み込んだ。

男子生徒「立てる?」
明海「…う………あ……あ……」

明海は顔面蒼白で目がうつろになり、全身の力が抜けて動くことができない。

男子生徒「僕が保健室まで運ぶから安心して!」

男子生徒は明海を抱き上げると、保健室へ向かって歩き始めた。
校舎内もところどころが凍結し滑りやすくなっているため、走ることができない。

明海はぐったりとし、体が冷たくなり、非常に危険な状態である。


保健室にはストーブがあり、気温も廊下と比べてはるかに高い。

男子生徒は明海をベッドの上に寝かせると、ガーゼと包帯を取ってきた。

男子生徒「今は養護の先生もみんなの手当てに回っていて、ここにはいないんだ。だから僕が…」
明海「……うっ……う………さ…寒い……」
男子生徒「毛布をかぶって。落ち着いて……落ち着いて……」
明海「…寒い…………死にそう………」
男子生徒「大丈夫だよ。右手の応急処置をするからね」
明海「……だめ…もうだめ……」
男子生徒「大丈夫」
明海「……ぁぁ…………」

保健室に張り詰めた空気が漂う中、男子生徒は明海の右手にガーゼを当て、包帯を巻いて固定した。


男子生徒「…早く病院へ連れていかないといけないのに……救急車が学校まで来られないんだ…」
明海「…ね……ねつ……熱気球…………を……」
男子生徒「…えっ?」
明海「……熱気球……早く……」
男子生徒「熱気球…? 熱気球か! それで病院へ行けばいいんだ!」
明海「早く……」
男子生徒「待ってて! すぐに熱気球クラブに行ってくる!」

男子生徒はクラブの部員と話をつけ、ただちに大型熱気球を使用することになった。


そのころ、校門では…


教師「…目を覚ませー! おいー!!頼むー! 死ぬなあああああ!」
外の男子生徒「先生、あれは!!」
教師「……な…なんだ!?」

グラウンドで巨大な気球が膨らみ始めた。

外の男子生徒「まさか…あれで病院へ!?」
外の男子生徒「飛ぶつもりらしいな」
教師「そうか!!もう気球で行くしかない! よし、お前たち、運ぶのを手伝ってくれ!」

校門に集まった数十人の生徒の協力で、倒れた女子生徒と骨折の疑いのある男子生徒が熱気球まで運ばれた。

教師「どうした! 何があった! 相葉も倒れたのか!?」
中の男子生徒「はい…右手に大怪我を負って……ショック状態に…」
教師「無茶しやがって……」
養護教諭「先生! こっちの生徒たちもお願いします」

白衣を着た養護の先生も、手や足に怪我をしたり、担架に乗せられたりした生徒を連れてグラウンドに出てきた。

教師「これで全員か? ほかのみんなは大丈夫か?」
牛岡「…あと、私も…足をくじいてしまって……」
教師「う…牛岡先生……」
男子生徒「体育の先生なのに…しっかりしろよ~」
牛岡「ああ…すまない……」
教師「よし、もう全員乗ったな? 出発するぞ!」


熱気球が地上を離れ、ゆっくりと上昇していく。


教師「いいか、みんな! できるだけ体を寄せ合って温まり、その場からむやみに移動しないようにするんだぞ!」
男子生徒「は、はい」
男子生徒「牛岡先生~~~! 1時間目の体育はどうすれば~~?」
牛岡「中止だ~~」
男子生徒「ちゅ“うし”だ~~~」
男子生徒「ゲラゲラゲラゲラ…」

教師、養護教諭、負傷した生徒12人、明海、それに足をくじいた牛岡が乗り込んだ熱気球は高く飛び立った。

高度が上昇し、地上で牛岡のことを笑う生徒たちの姿が徐々に見えなくなった。



牛岡「相葉……聞こえるか……? あのとき笑って悪かったな………」
明海「……牛岡…先生……」
牛岡「ああ……寝ていていい…。俺が悪かった……」
明海「……そうですか……」
牛岡「今回、お前が機転を利かせて熱気球と叫んだことで救助が早くなった…」
明海「……そんな……冗談のつもり……だったんですよ……」
牛岡「これでいいんだ。ほら、病院が見えてきたぞ」


見下ろすと病院があった。

病院の周囲の道路は自動車であふれかえり、大渋滞が続いているのが見えた。


牛岡「ほら…。あそこで立ち往生している救急車、たぶん学校に向かっている途中だ…」
教師「このまま病院の屋上に着陸すればいいでしょうか?」
牛岡「ええ。慎重に高度を下げていってください」
養護教諭「…こんなものが屋上に降りたら、みんな驚きますよねぇ……」



そのころ………



あすさん「ははは……なんて寝相が悪いんだろう……。布団から数百mも転がってるよ…」

あすさんは正式に目を覚まし、意識もはっきりとしていた。

あすさん「部屋の中に池があるから危ないよな。もし顔面から落ちていたら今ごろ死んでたかも…」

体を拭いて浴衣を脱ぎ、着替えながら部屋を歩き回るあすさん。
ベッドの上に置かれた弁当箱の存在に気がついた。

あすさん「“あすさんのお弁当です。あすさんの好きなものばかり入れたつもりです。だから残さず食べてね。明海より”
 ふむ……わざわざ私のために弁当を作ってくれたのか……」

時計を見ると12時を回っており、お昼ご飯を食べてもよさそうな時間であった。

あすさん「さっそく食べようかな。…ん? ん? あれは……なんだ?」


ふと窓の外を見たあすさん。
その先には、巨大な熱気球が飛んでいるのが見えた。


あすさん「本物の熱気球!?……あれ? 下がっていってる…。どこに着陸するんだろう?」

あすさんは夢を見ていた。


…マビノギの夢である。


場所はカリダ探検キャンプ──


ケルピー「青いドラゴン、レガトゥスは僕の命の恩人です」
あすさん「いつまで青いドラゴンを“人”と呼ぶつもりなのか……」
ケルピー「……」
ベリタ「男?んー…嫌いじゃないわよ」
あすさん「嫌いじゃないということは、好きでもないということだ……」
ベリタ「……」
アルネン「金で売れるなら魂だって売り払っちまうんだがな」
あすさん「金は命より重い……」
アルネン「……」

あすさんはカリダ湖へ上っていった。

レガトゥス「全ての光が…消えた…」
あすさん「じゃあ周りの光が見えるのはなぜ?」
レガトゥス「グルル…」
あすさん「消えたのは一部の光なのではないか?」
レガトゥス「……」


まだ希望の光はある──


あすさんは勝手に納得し、ケルピーから小型熱気球キットと発火石を購入しようとしたが、


インベントリのお金が足りません。


あすさんはアルネンと会話し、金貨を引き出し、再び発火石を購入した。

そしてフライングスターにまたがって空を飛び、温泉地帯を通過し、
火山オオカミのいる付近に着陸した。


インベントリから熱気球キットを取り出し地面に設置すると、一瞬にして熱気球が現れた。

熱気球に乗り、離陸を始めるあすさん。

あすさん「あ!!ワンド忘れた! ペットの中だ…」

熱気球に乗っている状態ではワンドを持っているペットを呼び出すことができないため、
着陸しなければならなかった。

あすさん「なんで30mまで浮上しないと着陸の操作を行えないんだ! すみやかに動いてくれよ……」

熱気球はホウキやペリカンなどの飛行ペットと比べて低速である。
離着陸にも時間がかかり、移動や方向転換も非常に遅い。


着陸したあすさんはペットを呼び出し、ファイアワンドを取り出して装備した。
使い込まれているため耐久力に乏しい武器である。

こうしている間も熱気球は燃料を無駄に消費し続けているため、すみやかに離陸しなければならない。


熱気球に気づいたアイスワイバーンの群れが一斉に戦闘体勢を取り、アイスブレスをチャージして襲いかかってくる。
一方、あすさんはワンドの力でファイアボルトをチェーンキャスティングし、ワイバーンを待ち構えていた。

ワイバーンが先に火を、いや、氷を噴いた。

アイスブレスは熱気球に命中し、あすさんもダメージを受けた。



あすさん「しまった! 全身を氷属性の装備にするのを忘れていた!!」



非常事態である。

アイスワイバーンの攻撃は氷属性であるため、全身9箇所の装備を氷属性で固めることによって
ダメージを常に1に抑えることができるのだが、このとき着替えるのを忘れてしまったあすさんは、
アイスブレスの直撃によって瀕死状態となってしまった。

あすさん「sldkfじゃ;sdfklじゃ;sldfkじゃうぇおぴらうぇいおjdkじゃ;slfかsd」

ワイバーンの執拗な攻撃でライフポーションを飲むことすらできなかったあすさんは、あえなく倒れた。

寒さを感じたあすさんは目を覚ました。

寒いはずだ。
あすさんは体が半分、池の中に沈んでいたからである。


あすさん「ワイバーン…ワイバーン…アイスワイバーン…。明海に助けを求める……」

あすさんは寝ぼけて携帯電話を持ち、いきなり明海に電話をかけてしまう。


明海「え……あすさんから電話…? はい、もしもし!?」
あすさん「Ask Nao for help...」
明海「……………はぁ?」
あすさん「氷属性を忘れた~」
明海「あすさん? いきなりどうしたの?」
あすさん「ワイバーンにやられた~」
明海「ワイバーン???」
あすさん「アイスワイバーン」
明海「アイス……って、今はマビどころじゃないの!」
あすさん「さっきはワンドをペットから出すのを忘れたし~」
明海「もうっ!!なんなのよ!?」
あすさん「ぼっばおぅ~ん…ぼっばおぅ~ん…」
明海「ファイアボルトがなんなのよ~~~~~~!?」
あすさん「アイスワイバーンは……」
明海「アイスバーン!?」
あすさん「バーン」
明海「あ、あすさん!?もしかして、あたしの状況わかってる?」
あすさん「私なら熱気球の上で氷漬けになって倒れてる」
明海「………そっか! この氷を溶かせばいいんだ……!」

画期的な発想が明海の頭に浮かんだ。



アイスバーンを溶かしてしまえばよい──



明海「…ファイアボルトなんてリアルじゃ使えないって言ってんの~~~~~~!!」
男子生徒「なんか叫んでるぞ…」
男子生徒「ほっとけよ…」
あすさん「だったらフレイマ…」
明海「ええい! うるさいっ!!!!!!!」

明海は通話を切った。


明海「あ! そうだ! この学校には熱気球クラブがある…!
 救急車が地上を走れないのなら、熱気球で病院まで運べばいいんだ!」


今度は画期的な発想なのだろうか…。

明海の通う高等学校は樽帝院の中にある。
自転車で20分、平坦な道を走るか、電車で数分で到着することができる。


自宅からそれほど離れているわけではないのだが、気温がどんどん下がっていることに気がついた。

自転車をこぎながら冷たい風に吹かれる明海。

明海「寒い! ってか冷たい~! こっちのほうは積もったんだ~」

学校に近づくにつれて積雪が深まっていく。

校舎が見えてくると路面にもうっすらと雪が積もっており、スリップ事故の危険性が高くなってきた。
案の定、転倒している人の姿が多数あった。


校門のところに人だかりができていて、なにやら騒動になっているようである。

明海「どうしたの……? 何があったの?」
教師「雪で滑った生徒たちが数十人、折り重なるように転倒して怪我を…」
男子生徒「いてえよぉ……動けねぇ……」
男子生徒「先生! これは足の骨が折れたかもしれません…」
教師「大丈夫か? まともに立って歩けるやつは何人だ?」
女子生徒「あ…足が冷えて感覚がなくなってきました……」
教師「ああ…誰か、校舎へ行って毛布を取ってきてくれ」
明海「あ…あの……あ」
男子生徒「俺が行ってきます!」
教師「頼んだぞ。気をつけてな」
男子生徒「うわっ!」

慣れない積雪で転倒する生徒が続出した。
気温が低く、倒れたままでは体温が下がり、危険な状態になってしまう。

男子生徒「…こうなったのってさぁ……」
男子生徒「…あぁ、絶対あいつのせいだ……」
男子生徒「…相葉の親がこんなに山を削ったからだ……」
男子生徒「…異常気象も全部あいつのせいだろ……」



明海の評判は悲惨なものである。

日本列島の山脈の大部分を平地にし、森や川を人工的な設備に作り変え、
完全な治水を実現させたかのように思われた相葉コーポレーションの革命的事業は、
工事が始められた1年半前から、異常気象を引き起こすものとなってしまっていた。

そのため、明海は高校へ進学する以前に多くの人から非難され、
中学校でできた友達を失い、事実上、孤立しているのである。


明海「……何とかしなきゃ……」
教師「非常に危険だ…。グラウンドが凍結して異常に滑りやすくなっている…」
男子生徒「立って歩くのではなく、地面をはって進んだほうが安全かもしれません」
明海「あたしが行きます」
教師「あ、相葉さん…」
男子生徒「どうせまたろくでもない結果になるだけだ。やめとけ」
明海「……ただ見ているだけでいいの?」
男子生徒「偽善にもほどがあるってもんだろ」
男子生徒「そうだそうだ! 助けたフリをして見直すとでも思ってんのか」
明海「なによ……わかったわよ! あたしの好きにさせてもらうわ!」
教師「ああ! 危ない!」

明海はあえて加速し、カバンをボディボードのようにしてアイスバーンの上を滑った。

男子生徒「すげ……いっそのこと滑っていけばいいのか?」
男子生徒「だめだな。あれじゃ途中で止まる」

明海はグラウンドの中央付近で止まってしまった。

明海「ううっ…冷たい……ここからどうやって進もうかな……」
男子生徒「ほら止まった」
男子生徒「二次災害になったな」
教師「ううむ……救急車がまだ来ない……路面の凍結が想像以上に深刻なようだ…」
男子生徒「救急車も二次災害を引き起こしかねないなぁ」
男子生徒「スケートリンクがこんなに怖いものだとは思わなかったよ…」
男子生徒「アイスバーンに慣れていないのもあるけど、こんな普通の靴だからな…」

女子生徒「先生……私……もう………」
教師「しっかりしろ!」
男子生徒「全身が濡れて体温が下がってるんだ…」
教師「おい、ちょっと上着を貸してくれ! 頼む! 先生も脱ぐ!」
男子生徒「は…はい…」
男子生徒「……凍り始めていますよ……」
教師「なんという寒さだ……。さっきからどんどん冷たくなっている…」
男子生徒「あぁぁ……眠ったらヤバいのでは……」
教師「起きろ! おい! 目を覚ませ!」


骨折の疑いのある男子と、低体温で危篤状態になった女子生徒。


明海はまず自分がアイスバーンから抜け出さなくてはならない。
そして、どうにか二人の生徒を救う必要がある。


明海「こんなとき……どうすればいいの…あすさん……」

明海は、まだ夢の中にいるであろうあすさんに必死に助けを求めた。

「(^q^)うぃくwwwwwwwwうぃくwwてんすwwwwwwぼくてんすwwwwwww」

午前6時を告げる、いけぬまの目覚まし時計である。


明海「ふう、もう朝か~。あすさんは……」

明海は床に敷かれた布団の周囲を見渡し、あすさんの姿がどこにもないことに気がついた。

明海「あれ……あすさん? どこ??」

布団は何者かに荒らされたかのように乱れており、何かを引きずった跡がカーペットに広がっていた。

その跡を慎重にたどっていく明海。



すると…


その跡は明海のベッドの下に続いていた。



明海「あすさん……」

あすさんは非常に寝相が悪いため、床を転がってベッドの下に入り込んでしまったのである。

明海「あすさん……なるほど……これじゃあベッドで寝られないわけよね……落下しちゃう……」

明海はベッドの下のあすさんにそっと布団をかけた。

明海「あすさん…今夜から寝袋で寝たほうがいいね。それとも体、縛っておこうか? フフッ」
あすさん「……だめだよ……おにーちゃん……」
明海「あらやだ……あすさんが寝言を………どんな夢みてるのかな……」

明海はあすさんの寝顔を携帯電話のカメラで撮影し、待ち受け画面に設定した。

空の様子を見るために窓へ向かう明海。


明海「なーんだ…ぜんぜん積もってないや……」

二重ガラスの窓は断熱効果が高くて結露しにくく、視界が常に良好に保たれる。

外を見ても雪が積もっていないため、明海はがっかりしてしまった。


明海「雪が積もったら、1時限目の牛岡の体育は雪合戦になると思ったのにな~…」

牛岡というのは第1話以来だが、明海に人前で恥をかかせた熱血体育教師のことである。
その名のとおり牛のような体格で、生徒や保護者にも人気のある先生だ。

明海「一時はあいつのせいでトラウマになったけど……。あすさんのおかげで、今は平気だよ……」
あすさん「……うしー……」
明海「あすさんは…お昼まで寝てるかな…」
あすさん「……しかー……」
明海「あすさんと登校できたらいいのにな…」
あすさん「……くまー……」
明海「これから学校で友達を作らないといけないなぁ…」
あすさん「……わにー……」
明海「あすさんのお弁当も作っておくね」
あすさん「……うまー……」



明海の部屋にはキッチンもある。
ロフリオスとは異なり、まともな食材が豊富にそろっている。


明海「あすさんは具の入ってないおにぎりが好きなんだっけ……塩を振って、これでよし、と……」

塩を振っただけの白いご飯をきちんと三角形に握り、弁当箱に詰めていく。

明海「うーん……おかず……どうしようかなぁ……」

あすさんは基本的に食事の手間がかからない。
回転寿司でも100円の皿しか食べない。
デザートはプリンで十分である。

明海「カレー…は…今から作ってたら間に合わないから……適当に玉子焼きでいいや~」

適当である。


明海「あすさ~ん、適当なお弁当だけど、ここに置い……あれ??」

ベッドの下にいたはずのあすさんが消えている。

明海「あすさん??愛妻弁当ですよ~~? 出ておいで~」

どうせどこかに転がっているのだろう──
そう思った明海は、自分のベッドの上に弁当を置こうとした。

明海「えっ! あすさん……」

あすさんはベッドの下ではなく、ベッドの上で寝ていた。
寝相が悪いにもほどがあるのである。

明海「あすさん、お弁当、蹴飛ばさないようにね……。それじゃ、いってきま~す」

明海は部屋から出て、すぐに戻ってきた。

明海「マビのダウンロードの続き、よろしくね! それじゃ!」

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