バリバリの「戦闘」や「対戦」といったジャンルのゲームは根強く続いていますが、マビノギを含めて「非戦闘」を売り、または前面に推しているゲームも多く、「ほのぼの」や「生活」や「コミュニケーション」といった色の濃いゲームは私の知る限りでは増加傾向にあると感じています。
コンピューターゲームといえばチェスのような頭脳ゲームに始まり、ギャンブル、レース、アクション、アドベンチャー、ロールプレイングなどの多数の「分岐」やプロセス、目的、エンディングのある複雑なプログラムのものに進化してきました。
プレイヤーの頭脳を駆使するゲームから、徐々にゲーム自体が複雑なプログラムを処理するゲームへと変わってきたともいえます。
「考えるゲーム」から「(リアルなグラフィックや動作で)感じさせるゲーム」へ。
これはつまり、プレイヤーが頭を使ったり悩んだりするのではなく、むしろゲーム自体が処理を行なうので、あまり考えることなく楽しく遊べるようになっているということでしょう。
さて……
そんな「頭を使わなくても楽しめるゲーム」に、どうして今さら「コミュニケーション」という難度の高い要素が求められるようになってきたのでしょうか?
もちろん、「そんなものは断じて不要である」と感じている人もいますが。
これは文章に書けば非常に長くなってしまいます。
なので私の結論だけを書きます。
ゲームにコミュニケーションを持ち込むとかえって疲れます。
・親切な仲間に癒されてください。
・日ごろのストレスや不満を打ち明けましょう。
・効率よりも楽しく遊ぶことを重視します。
これ、上手くいくのは最初のうちだけ、いや、自分が順調なときだけなんです。
「自分」というのがくせものです。
わかりますか?
「自分が順調なとき」といいますが、そこには「自分以外」の人がいるわけですから、「自分以外」の人が不調になった場合に「自分」がその影響を受けないはずがないんです。
これは精神医学で認知されている症状の一つで、人に「共感」したり「責任」を感じたりすることがプレッシャーになり、それが悩んでいる(不調な)本人にも伝わり、悪循環を生むというものです。
いわば「共倒れ」です。
例を挙げると、
ギルドのメンバーがなじめないのは、マスターである自分が悪いからだ。
というように自分を責め、それが残りのメンバーにも伝わり、
マスターが悩んでいるのは、メンバーである自分が悪いからだ。
と負の連鎖が続くようなものです。
さて…
かくいう私も以前はコミュニケーションを推進していたわけですが、構造上の重大な欠陥に気づいたため、それを覆しました。
そして改善されました。
どのようなジャンルであれゲームはゲームです。
「責任」なんて意識しなくていいのです。
誰にも責任などないし、負わせる権限もありませんよ。
遊ぶことが負担にならないようにしましょう。
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